「東京の下層社会」
著 紀田順一郎
現代の人にとって明治時代と言えば、明治維新から始まり文明開化が進む明るい印象があるかもしれません。
「はいからさんが通る」とか「るろうに剣心」などといった明治時代を扱った漫画作品などにより、どちらかというと新しいことに向かっていくような明るいイメージを持つ人も多いでしょう。
この本はそんな現代人にとって、明治時代とはそんな時代じゃないということをこれでもかというほど思い知らせてくれる本です。
主に明治から昭和初期における東京の貧困の実態について書かれているのですが、ハッキリ言って壮絶です。
まあ、確かに歴史的なことだけを考えてみても、殖産興業や富国強兵が強力に推し進められた時代背景にあって、間違いなくその犠牲になった貧民層がいないわけがないんですよね。みながあまりその存在を考えないだけで。
明治時代は、上野の浅草口を出たあたりの下谷万年町と四谷鮫ヶ月、それに芝新網町(浜松町の南方)が三大スラム街だったそうです。
スラム街といっても、大抵の現代の日本人はいわゆる長屋みたいなものを思い浮かべるかもしれませんが、それが実際は想像を絶するもののようだったようです。
2019年の大河ドラマ「いだてん」がちょうどこのころの日本の庶民をよく描いていて、主要登場人物の中に車夫(スラム街にいる人の中で一番多い職業)や遊女がいましたが、イメージとしては現代人から見た貧乏といった感じでした。
でも、本当のこの頃のスラム街のイメージに近いものとしては、現代の日本人からしてみれば、発展途上国のゴミ山があるようなスラム街という感じで、長屋がほとんどですが、どれも倒壊しそうなものばかりな上で極めて狭く、ボロをまとい、食事も残飯屋(近くの軍事施設から残飯を卸していた)から安い値で食い漁るという感じだったそうです。
もちろん、当時の明治政府には福祉という観念すらなかったので、最低限の生活保護も救済策もなく、重い病気になっても不能になったり、死ぬを待つだけの世界です。
この政府が貧困に対して何もしない、そしてそれ以外の人たちも貧困に対して見ようともしないというスタンスが実は現代にも通じるところがあって怖い話ですね。
社会に格差が広がれば、間違いなく貧困層が出てきます。
問題は、社会を動かしている勝ち組の人たちがそれらの貧困層の存在をまるでいないかのように見ないという点です。
いつ自分もしくは自分の家族が貧困層に陥るかもしれないという可能性があるにもかかわらず、彼らをどうにもしようとはせず、貧困なのは努力をしない、能力のない彼ら自身の責任なのだと片づけてしまいます。
こうした自己責任論は、今も尚世界中の至る所で蔓延っていて、間違いなくそれが社会に分断と歪みを生み出しているのです。
つまりここで語られている明治時代の貧困の話は、そのまま現代にも当てはまる話なんですよね。
ちなみに明治時代の三大スラム街は、関東大震災でほとんど倒壊か焼失し、それをいいことに政府は東京の中心地にいた貧者を圏外に追い出しました。
大正から昭和初期にかけては、スラム街は今の荒川区、板橋区、それに豊島区の西巣鴨のあたりに移ったようです。
要するに、貧者を救うような抜本的な改革をせずに、富める者から見えない所に追い出すという江戸時代から続く政策を繰り返しているだけです。
保守を訴える政治家などが昔の日本はよかったとか、日本人の精神がどうとか言いますが、昔の日本の実態は富むものや権力者に都合のいいものでしかありません。
日本が戦争に負けて、アメリカから民主主義が入ってきたからこそ、福祉という観念もようやく根付き、このころに比べればだいぶマシになってきましたが、もし戦争に負けずに民主主義や福祉というものが未だに存在しなければ、一部の富める者以外には地獄でしかない国になっていたでしょうね。間違いなく。
この本の後半では、この時代において、まさに地獄を見ていた女郎や女工の話が生々しく描かれています。
ただこの時代から性犯罪に関する刑法が根本的には変わっておらず、性産業も世界からみて恥知らずと言われる程発達しています。
また労働に関しても、非正規がどんどんと増えて、パワハラセクハラが感覚的に当たり前なブラック企業などが横行しているのを見ると、根の部分では百年前とあまり変わっていないんだなと思わされます。
明治時代の話を読んだはずなのに、なぜか現代のことを考えてしまうという不思議な本でした。
ただこうした本をちゃんと書いてくれる先人がいたということ、そしてそれが残っているというはとても大事なことですね。
歴史は一般的にはどうしても目につくような派手な部分でしか認識されませんが、そこにいた、その時代の普通の人たちの実態を知るというのはとても大切なんだなと激しく思わされました。