小1の世界から見えてくるもの

上の子が今年から小学校に通っています。
コロナの影響で出だしは躓いたものの、徐々に学校に慣れ始め、新しい友達も出来ているようです。
小学校に入り、色んなことを勉強し、出会う人たちも増えていって、これからどんどんと自分の世界を広げていくでしょう。
まさに希望がいっぱいという感じです。
ただステージが上がり世界が広がるということはいいことばかりでありません。
おそらく自分自身もそうだったであろう感覚で、小1の娘を通して思い出したものがあります。

それは支配の感覚です。
今風に言えば、マウントとでもいうでしょうか。
保育園や幼稚園の後半から徐々にうっすらと見えてきた感覚なのですが、同じクラスの中でも言うことを聞かせる子と言うことを聞く子、それぞれの人間の中でぼんやりとした上下関係を作っていくんですよね。
ただ未就学児のころは、たいていの場合は遊びにおいて誰が鬼ごっこの鬼役をするのかとか、お姫様ごっこのお姫様をやるのとかといった、遊びにおける具体的な役割決めなどにおいてそういった感覚が出てくる程度です。保育園や幼稚園でも基本的には保母さんや幼稚園の先生の管理下にいるので、みんな仲良くしましょうの号令とともにその人間関係もだいたいは整えられていきます。

ただこれが小学校に入ったら別の話になってくるのですよね。
まずお互いのマウントの取り合いがあくまで遊びの役決めなどの具体的なものだけでなく、日常生活のなかでの精神的なものにまで及んできます。
女の子で言えば、誰が可愛いとか、勉強が出来るかとか。男の子で言えば、誰が足が速いかとか、体が大きくて力が大きいかとか。
そういった要素に口先が達者な子や、兄弟の存在なので生存競争の経験がある子などがそれぞれの特徴を生かして、築かれていく人間関係の中で無意識のうちに優劣を決めて行ってしまうんですよね。それが乗ずれば、いずれ差別や虐めといったものに発展していってしまうのだと思います。

人間なのだから、出来る出来ない、得手不得手があるのは当然です。それをみんな平等で行きましょうとは言いません。
ただ問題なのはこうした支配の気持ちの萌芽を、社会とはそういうものだという視線であまりにみんな放置し過ぎている点です。
それぞれに差や違いがあることを多様性とは取らずに、ひたすらに他人よりも優っているという自尊心の補完のために役立っていくだけになってしまっているんです。
ここで生まれた人をマウントする気持ちは、何が悪いとは大人にはほとんど教えられずに育っていきます。
部活の上下関係や受験戦争、はたまたイケてるイケてないのスクールヒエラルキーで助長されていき、社会に出てからも経済的格差や誰と結婚したか、などでわたしたちはこうした感覚に絡めとられていくのです。
あくまで人が人を支配使用する、己が他人よりも優っていると証明したくなるのは、人間としての性なのかもしれません。
ただの人間の性がお互いを縛り上げ、社会に歪みや行き詰まりを与えているのなら、やはりそれは、それは人間としての思ってしまうものなのかもしれないけれど、でもダメなことでもあるんだという教育が必要なのではないでしょうか?

娘の様子を見ていて思ったのが、ことジェンダーの問題に関してはとてもわかりやすくこのころから男と女の間で、そして性的マイノリティに対しても、マウントや偏見が始まっているんだなということです。
このころから保育園や幼稚園で同列だったはずの男の子と女の子の間で徐々に変化が現れてきます。
男の子たちの一部が、女の子のお尻を触ったり、トイレを覗いたりとチラホラと出てき始めてくるんですよね。
実際に娘の身の回りでも具体的な事例がポツポツと出ています。
ただそのポツポツは間違いなく氷山の一角で、口に出せない子はたくさんいるんですよね。
頑張って口に出せたとしても、親がとり合わなかったり、親がとり合ったとしても、先生がとり合わなかったりという話もたくさんあるのかもしれません。
周りの大人がみんなそのことに対して真剣に取り合って初めて問題となるのですが、問題となるまでに障壁がたくさんあるんですよね。
そして、その障壁にぶつかれば、被害に遭った子は余計に口を閉ざすでしょうし、加害をしている子は、「何だ、簡単な話なんだ」と調子に乗っていきます。
多くの人は忘れているだろうし、多くの男性は気づいてもいないかもしれませんが、もう小1の段階でこういうことが始まっているんですよね。

最近学校での性教育はあまりされなくなってきていると聞きます。
でも、それは本当に正しいのでしょうか?
支配という観点に照らせば、むしろ男の子の方にこそ、性教育が必要なのではないでしょうか? そして大人も性的なことだけでなく、こうした序列がそこかしこにこの時期から出てき始めることに着目し、それが本当に正しいことなのかどうか考えてみるべきなんじゃないでしょうか?
普通に考えみれば、このころからちゃんと教育がなされていれば、被害に遭った子を救うだけでなく、加害をした子も道を誤らせずに済むわけなんですから。

SDGsが叫ばれてからすでに5年が過ぎています。
でも日本ではそれが浸透しているとはいいがたく、その言葉の意味や読み方すらも知らない人が多いでしょう。
みながこれまで築いてきた社会がすべて正しいものとは限りません。
一部の人にしか得にならない因習は山ほどありますし、それがあることに気が付いていても、ほとんど声を発しない人がほとんどです。
だって面倒くさいから。何となくうまく行っているんだからいいんじゃない。
そんな声の裏で、我慢している人がたくさんいます。我慢している人がいるからこそ、今のこの社会が成り立ってしまっています。
でも、そんな状態は本当に健全なのでしょうか?
社会が見るべきものを見ないでいるからこそ、わたしたちは今息苦しさを感じているのではないでしょうか?

まだ小1じゃないんですよね。もう小1なんです。
これからの子どもたちのために、我慢している人が我慢しないで済む社会をみんなで作っていってほしいです。