橋下徹さんの発言に考える。権力者と普通の人の「必要悪」の違い

橋下徹、森喜朗会長後任選びの“きれいごと”に苦言「“クリーン”な人では、いまこのポジションはできない」

元大阪府知事であり、大阪市長であった橋下徹さんの発言の話です。森喜朗氏が女性への差別発言で五輪組織委員会の会長を辞任した後、後任がなかなか決まらないことについてラジオで語った発言なんですが、ようするに世間が新会長にクリーンな人物を求めていることに対して苦言を呈しています。
まあ、これは政治家や官僚などからも漏れ聞こえてくるのと同じような考えなのですが、つまるところ五輪組織委員長のような政財界や海外のトップと渡り合わなければいけない要職はクリーンなだけではやってられない。剛腕とも言えるくらいの政治力や胆力がなければダメだという話です。
つまり森喜朗的な存在を暗に「必要悪」として認めているという話であり、むしろ要職に就く者は、そうした必要悪を時に使いこなす人間じゃなければダメだ。世間はそのことを全然わかっていないという話ですね。

元弁護士であり、元政治家であるこの人からこういう話が出てくるのは当然だと思います。それはこの方自身がそうした世界で生きてきた方であるし、そこの部分を認めないと、それは自己否定に繋がってしまうからです。
でも、この話を聞く限りでは、この方自身も実は森元会長と同じく話の本筋が見えていないと言わざるを得ないでしょう。
森元会長は、未だに問題を発言が与えてしまった誤解であると主張しています。
これはそもそも誤解を与えるような報道をしたメディアが悪いのだし、しいて言えば誤解ととられるような発言そのものだけが悪いとすらほのめかしています。
橋下さんの主張も言い方を違えど、同じ臭いを感じますね。
問題は余計なことを言ってしまったという行為自体であって、メディアによって変な切り取られ方をされてしまった森さんの怒りは理解できると言っていますからね。

でも、よく考えてください。わたしたちの多くは、森さんの失言だけに対してあんなにもNOと叫んでいるのでしょうか?そこに垣間見れる暗闇が明らかになったからこそ、怒っているのではないでしょうか?
確かにキッカケは、女性への差別発言です。
でもこれはもはや言った言わないの話だけではなく、一部の中高年の男性によって支配された縦社会の在り方そのものが問われているのです。

橋下さんの必要悪を容認する考えは、この縦社会の存在ありきの前提です。
彼は物事をすんなりと運ばせるためには、上に立つものが必要悪となる必要性を訴えており、それをわからない方が稚拙なのだと言っているのです。
まるでプラトンの哲人政治みたいな話ですね。これはプラトンが大衆は愚かだと決めつけた上で、政治とは自分のような哲人こそが担うべきだという考えです。

ここまで論じると明らかですが、つまり森氏も橋下氏も、自分たちのように要職に就く者は、ときに必要悪と呼ばれるような行為をしないとやってられない。
そして何が許されて何が許されないかは、要職に就く自分たちが決めることであり、またそこに透明性がなくても問題ない、そこに対してウダウダというほうが野暮だと言っているんです。
自分たちは特別だというエリートらしい発想ですね。
一見、それこそが社会を安定させる術なのだと言っているのですが、でもそれは逆に民主主義を否定しているとも言えます。
民衆は愚かだから分からなくていいという前提ですからね。
そしてエリートとして発言権がある人のこうした発言こそが、本当の意味で社会分断を生んでいるのです。

プラトンの哲人政治の問題は、政治のリーダーが常に立派な哲学であるとは限らないという点であり、そもそもプラトンが皆のために政治を行う哲人であったかどうか人の判断に分かれてしまうという点です。
そしてこれは、森元会長や橋下さんにもそのまま当てはまります。
彼らは自分たちの裁量で必要悪の範囲を決めることは当たり前だとし、それこそがリーダーがリーダーたる所以だと思い込んでいますからね。

でも果たして森元会長や橋下さんは、誰もが善と疑わないリーダーでしょうか?
一体誰が彼らに必要悪の線引きを決める権利を与えているのでしょうか?
バブルが弾けて以来、低迷が続く日本においてここ数年強いリーダーが求められました。
決められない政治からグイグイと皆を導いてくれることを期待したんですね。
そんな世の中の声に呼応する形で現れたのが安倍前首相や橋下さんです。
党は違えど、反対派を無理やり押さえ込んででも、自分が正しいと思ったことをやり切っていくというスタンスという点で二人はとても似ていて親和性があります。そんな二人がなんだかんだ言いながらも踏襲していたのが、森元会長ら政治家の重鎮たちがかつて当たり前のこととしてきた、必要とあらば、必要悪と割り切ってどんどんと前に進んで行くというやり口です。

そうした政治の顛末がどうなるかは、安倍前首相の現状を考えればわかると思います。必要悪を自身の裁量で広げてきた故に、森友問題や改竄問題、桜問題と疑惑のオンパレードとなっています。中には未だに安倍さんを支持している人もいますが、大多数の国民にとっては、彼は今や嘘つきの代名詞です。

忘れている方もいるかもしれませんが、この国はれっきとした民主主義国家です。
それが何を意味するかというと、権力者がその解釈一つで何をやってもいいというわけではないということです。
つまりは、民主主義の世界にあって必要悪はそもそも存在してはいけないんです。
とくに政治の世界に関しては、彼らは国民の代弁者に過ぎないわけで、その代弁者が必要悪だと言って好きにやることは、政治の暴走を招き、取り返しのつかないことになりかねないのです。

まず、本当に彼らがいうところの必要悪が必要なのかを考えてください。
なぜそれが必要悪と言われて密室で行われるのか、透明性のないところで行われるかを考えてください。

それは、ずはりそうした行為をする人たちの間に後ろめたさがあるからです。
なぜ後ろめたく、隠さねばならないかは、簡単です。そのこと自体がみんなの利益となっておらず、特定の誰かのための利益にしかなっていないからです。

透明性を持って政治をし、出来る限り様々な人の意見を聞いて反映し、まとめようとすればどうしても時間がかかります。
でも、民主主義の国なんですからそれでいいんですよ。
そっちの方が一部の人の利益や主張のためにしか動かないリーダーに任せるよりもずっとマシなんです。

そんなんじゃ、オリンピックのような大規模なことが出来ないと言う人もいるでしょう。
でもはっきり言ってもうやらなきゃいいんです。
話し合いで色々と決めることが出来ず、未だに男女差別や年功序列、それに学歴格差、経済格差を基調とした縦社会の論理でしか物事を決められないのなら、まだまだ民主主義国家として成熟していないということです。
なので莫大なお金が動き、政治力とやらが必要な大きなイベントは、もっと国として成熟したときに大人のやり方でもってやればいいんです。

森さんの後任に橋本聖子五輪大臣という声が上がっています。
またしても密室で決まり、かつ森さんとも繋がりがあって政治色が強い橋本聖子さんが適任がどうかはわかりませんが、少なくとも必要悪な行為をする必要のない、透明性のある五輪にしてほしいですね。
五輪をこのままの形でやることに国民が納得すれば、の話ですが。

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