エリートたちの努力の対価を求めすぎる自意識が、世界を闇に向かわせる。

サンデル先生の新刊に「心中穏やかでないエリート」が続出している理由

マイケル・サンデル氏の新著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』に関する記事ですね。ポイントは日本を含む先進社会の根底にある「能力主義」であり、その指標は学歴(主として卒業した大学の偏差値)です。日本においても、高い学歴をもつエリートの多くは、この「能力主義」=「学歴主義」のイデオロギーを何の違和感もなく受け入れてられていますが、サンデル氏は、この社会構造を根本から批判しています。

ようする勉強を頑張っていい大学を出て、いいところに卒業し、それなりに不自由のない生活を送っているエリートたちは、自分たちがその立ち位置にいることを自らの努力の賜物であり、それに対して自分よりも下層の人が文句を言うのは、努力をしなかった者の負け犬のと覚えだと思っている。でも、本当はそんなことはなく、エリートたちの大半は確かに努力もしたが、生まれた国や地域、階級、あるいは性別や人種、遺伝などによって下駄を履かせてもらっていることも事実であって、それは一般的にエリートたちが感じている以上の格差を広げる理由となっているわけなんですよね。

そして、エリートたちはそこに目を向けたがらない。それは紛れもなくそこに後ろめたさがあるからであり、その事実を認めてしまえば、自分の身を削って何かを与えない限りは良心の呵責に苦しめられることになるからです。

そこでエリートたちが無意識のうちに行き着いた理屈の自己防衛策が、努力による公平性です。つまり、学力試験による序列化構造は、人びとの努力を正しく反映しており、この社会でもっとも公平で公正な競争である」という前提に自らを立たせ、これを当たり前の理屈として社会に広めることで、エリートたちはより下層の人々が下層にとどまっていることの理由づけをし、さらには自らの視界からも彼らを締め出すことに成功しているんですね。しかも彼らには頑張って勉強をしてきたという経験を担保としたエキスキューズがあるからその意識が強固になっている。ようするに、自分が努力をしたという価値を無駄にしたくないという意識がものすごく働くんです。

この気持ちは正直わたしもわかります。わたしも団塊世代Jr.の子どもの人数が多い最中でそれなりに受験勉強をやってきましたからね。遊ぶのを我慢してそれなりに勉強をしてきた人間たちからすれば、社会に出てからのある程度の恩恵は、勉強を頑張ったことに対する正当な報酬だという意識がどっかにあるんです。あれだけ頑張ったのだから、その分いいことはあるのは当然だと。そしてそれは、自分自身が苦しみながらも経験してきた話で、もはや人格形成を成す際に乗り越えてきたものであるから、何よりも真実となってしまい、そうなるとそもそも下駄を履かせてもらっていない他人の話など、頭では理解しても、自然に右から左に抜けてしまうんです。それはそうですよね、人間、自ら体験した話であればそのことに対して深く考えることはできますが、自分に直接関係ない話となれば、なかなか身を入れて考えるのは途端に難しくなってしまいますからね。

問題なのは、そうしたエリートたちの自己憐憫、つまりあれだけ頑張ったのだから、自分は人よりも抜きん出た生活を送るのが当然だという気持ちが、本人たちにとってはプライベートな気持ちであっても、それが集合化することで社会を階層化させているという事実です。つまりエリートたちの努力の対価を求める気持ちこそが、すべて自分たちの報酬と指摘するべきだという意識が格差を広げて貧困を撒き散らしていることは間違いないんですよね。さらに問題なのは、エリートたちに、そこについての自覚がほとんどないというところです。それはそうでしょうね。だって、自分たちはあくまで公正な競争に勝ち抜いたからこそ、裕福な暮らしをする権利があると思っていますから。でも、何度も言いますが、彼らが思う公正さは、彼らが見たくない事実を無視した公正さであって、もはや名ばかりなものにすぎないんですよね。

実際、アメリカでは、突出して頭が良くない限りは、それなりに裕福な人間じゃないとレベルの高い大学には行けません。日本だって、裕福じゃないと私立の医大になんていけませんし、そもそも大学に行こうという気持ちや、そうした進学という選択が自分の未来を救うのだという予測が、下層にいる人にはなかなかつかない。

エリートの人たちには想像すらつかない話なんですが、実は幼少期に自らへの教育の意義を理解できているかどうかって、その後の人生を大きく左右してしまっているんですよね。しかもそもそも勉強の必要性がわからず育ってしまった人は、勉強が出来ないというレッテル貼りによって、勉強をしなかった自分が悪いと思い込みがちで、結果的に学歴による能力主義を是認し、エリートによる社会支配の仕組みを擁護するピースにすらなってしまっている。

そうなってくると、当の煽りを受けている本人たちですら、社会構造の不平等性に気づいていないわけですから、ますますこの仕組みは強固になってきていて、格差がさらに進んでしまうという話になるのです。

こうした状況を変えるのは、もはやエリートたちの良心に頼るしかないでしょう。

これが200年くらい前の話なら革命が起きて状況がひっくり返るかもしれない。でも現代社会では、社会の仕組みとして社会的に下位にいるものが暴力によって前提をひっくり返すことが出来なくなっているし、そもそも国の軍隊や警察が近代兵器を持っている以上、力で対抗することは出来ない。

可能性があるとすれば、まともな民主国家であることが前提ではありますが、そもそも選挙によって正当な形で国のあり方を正していくという道はあります。ただこれも、政党が自分たちのための党利党略によって動き、さらに都合よくナショナリズムを煽ることが横行している世界ではそれもなかなか難しいでしょう。アメリカなどにおいては、お金のあるエリートたちが政治家に対して莫大な献金を背景に、自分たちに利する法案を作るように促がすことが横行し、もはや民主主義ですらもお金による支配に組み込まれつつあります。

かつてアメリカの哲学者であるロールズは、「正議論」の中で、「自分が優位な立場に生まれ育ち、その恩恵によって教育をもたらされたならば、その能力は社会の貢献のために使われるべきだ」と言っていました。

それは資本主義社会とそれに伴う私有の概念を前提にするならば、せめて生まれながらにその恩恵に預かった人間は、社会に対してより積極的に責任を持ち、貢献するべきだという考えです。

その通りの話でしょう。エリートたちが属する企業などの組織は、そもそも社会があってこそ存在しているわけですし、エリートがエリートとして生まれたことでその人間の価値が決まるのではなく、結局人間の価値というのは社会や他者に対して誠実であったかどうかで決まるわけですからね。

現代アメリカの中からこうした議論が出てきていることに変化を感じます。最近では法人税の国際的なルール作りや、富裕層の税金逃れのニュースなども表に出て来るようになってきました。少しずつ、エリートによる階級形成そのものがおかしいという話が出て来るようにはなっていますが、まだまだわたしたちの大半は、自分に関する努力と報酬の関係にしか目が行かず、自分たちは社会のなかで生かされているのだということに気づけていません。

サンデル氏のような有名な先生の言葉を皮切りに、倍々ゲームに興じることが自分の権利だと思い込んでいる人たちにNOを突きつけるような意見が当たり前となっていくといいですね。