「上司ガチャ」を嘆くことは、本当に「逃げ」なのか?

三崎優太氏が〝上司ガチャ〟に言及「ガチャとかいって運に委ねている時点で終わり」

親ガチャに続いて、上司ガチャという言葉が出てきましたね。
確かに、親と同じで、会社に入ってしまえば、上司を選ぶことはなかなか出来ず、パワハラ、セクハラが当たり前の上司に下についてしまったときは地獄です。

上記の記事では、「青汁王子」こと三崎優太氏が、「親と違って上司は選べるのだから嫌だったら辞めればいい、運任せにするな」と言って憤っています。
確かに「親」と違って、「上司」はまだ選べるものであり、ブラック企業などに入った場合は、とにかく「逃げる」ことも選択肢ではあると思うので、一理はあると思います。
ただそれぞれ個人によって事情は違っており、そう簡単に上司を変えられない人は多いでしょう。
これは安易に自己責任論で済ませてしまっていい話ではなく、「逃げない方が悪い」という論理が正しくなってしまえば、それはすなわちパワハラやセクハラを当たり前とする上司を是認することになってしまうんですよね。

問題は、なぜ日本の社会には、こうもパワハラやセクハラ体質の上司が多いのかという点です。
「みんなそうなんだから、いいいじゃん、会社ってそういうもんでしょ」という考え方自体がおかしいのです。

かつて「空気論」などで戦前から続く日本人の体質について言及していた山本七平さんは、戦争中及び戦後のフィリピンでの捕虜収容所生活の体験から興味深いことを言っています。
欧米人は捕虜収容所に囚われても組織的に団結し、そして彼らの組織は、基本的に誰がリーダーになっても同じように動ける団体を作り上げていく。一方で日本人は、形としては強烈なトップダウン型の組織は作るものの、細かいことは現場の上司任せで、新人などはその上司の人間性によって運不運が決まって来ると。
つまり、欧米人の場合は、組織を作る上で、新人が入って来ても、その人をどう扱うか、どう育てるかは組織の哲学に関わることであって、したがって、現場の上司は裁量権はあっても、だからといって勝手に部下を虐めたりすることは、組織の制度上ダメだという話になっているのだけれど、日本の場合は、現場の上司は大した裁量権を与えられない代わりに、その上司の下にきた部下に対しては、彼が好きなように扱ってもいいという不文律が与えられるんですね。

もちろん、今の時代、パワハラやセクハラはダメだという話には法律上も駄目だという話になっていますが、そうした軍隊の在り方を継承した会社文化の中で育ってきた人たちには、そうした悪い癖を治すどころが、それが社会の常識なのだと勘違いしている、もしくは昨今の社会常識の変化を見ないふりをしているんですよね。
まあ、ようするに全体的に日本の社会は、人を育てるという発想に乏しく、いつまでも中学時代の部活の在り方そのものの上下関係こそが礼儀規範だとか都合よく解釈しているんです。
だから、上司ガチャという言葉が生まれ、それに対して反発する人が出てくるんですよね。

上司が悪いのは、部下の責任ではありません。
あくまでその上司そのものの人間性の問題であって、その人自身とそうした人を放置している組織の責任です。
逃げない奴が悪いという理屈自体はおかしいんですよね。

かつて上司や先輩が部下や後輩にモノを教えないのは美徳として扱われていました。
つまり、教わるのではなく経験から盗めと。
でも、それは単に教えるのがめんどくさいという言い訳にも聞こえます。

もう一度言いますが、問題は人を育てるという認識が社会全体に欠如しがちだということです。
しかも教え方が分かっている人が少なく、押しつけがましかったり、教えること自体がパワハラめいたやり方でやっている人が多くいます。
そういう人に限って、自分の教え方が悪いという自覚すらないことが問題なんです。

まずは組織そのものが「教える」という行為について学び、それについて適切に行っている人を適正に評価する必要があります。
年功序列でいいという時代はとっくに終わりました。
教え方がうまい人が組織の上に立つ。
そもそもそこから始めないと、生産効率は一向に上がらない。
日本の会社の多くがそのことに気がつかない限り、日本の社会はなかなか変わっていけないんですよね。