POPカルチャーに没入することでしか、世界を理解することが出来なくなっていることの弊害

90年代米国が罹った「みんな子ども症候群」の正体「スーパーマン」「バッドマン」がヒットした背景

ああ、これは何かすごいわかる話です。
アメリカのジェネレーションXの話なんですけれど、ようするにベトナム戦争後に生まれた世代は、社会運動で何かを変えられるとは思っておらず、どんどんとPOPカルチャーに没入していってしまって、POPカルチャーを通じてしか、自分の感情が説明出来なくなってしまったという話です。
「リアリディ・バイツ」という映画を引き合いに出して説明しているのですが、わたし個人としては、一応、このジェネレーションXにギリギリで入る世代なので、感覚的にわかる話なんですよね。

ていうか、こうした感覚って、この辺りに始まって、今はもっと加速度的に進んでしまったっているような気がする。
この頃は、あくまでテレビや映画を媒介として、わたしたちは感情のもっていきどころを探っていましたが、今やそれがネットを中心としたもっと広く、もっと多量なものに依存するようになってしまって、さらに多角化もしているので、もはや何が何だかわからない状態になってしまっている。

ただ一つ共通して言えるのは、やはり社会を変えられないと諦めてしまっていること。
アニメでもゲームでも音楽でも、そこに没入し、心地よく浸ることで、現実と乖離することを望んでいるんですよね。

このこと自体は、決して非難されることではないと思います。
まず現実社会にストレスが多すぎる。
そうしたストレスから逃れるために、様々な自分にとって心地い情報に触れるというのは、多かれ少なかれ誰でもがしていることなのでそのこと自体は誰に非難されるいわれはないでしょう。

ただ問題なのは、そうした情報自体が売り手市場になり過ぎてしまっていて、いかに「売れる」にはどうしたらいいのか、という所から外れなくなり、結果的に受け手側も自分が意識しないままにただの消費者にされてしまうという恐れがあるところです。

実際に、AIによるアルゴリズムによって知らず知らずに人間の意志そのものがコントロールされていることの問題はすでに言われ始めています。
クリエイティブな仕事としても、いわゆる「売れる」ものと「売れない」ものに二極化され、クリエーターの多くは、ひたすら「売れる」ものだけを作ることを要求されることも多いでしょう。
これに抵抗して、生きるというのはなかなか難しくなっているというのが現状です。

確かに売れなきゃ意味がない、売れるモノを作ろうとして何が悪いんだという反論はあるでしょう。
それはそうですし、売れるモノを作ること自体が悪いわけではないのですが、問題はそうやって世の中そのものがスマート化されて、合理的なものが正義とされ、画一化されていしまうことが大問題なんです。

画一化されて、「売れる」ことだけが正義となった国民なんて政治家からしてみれば、簡単にコントロールしやすいですからね。

学生の時に何となく観た「リアリティ・バイツ」が数十年後にこうした意義を持たされるようになるとは思いませんでした。
とにもかくにも、どんなカルチャーに傾倒しようとも、狭い情報だけで何かを決めるのではなく、色々なものを見て、自分の頭で物事を考えるということがとても大事だということだけは確かなんですよね。