「ルパン三世 カリオストロの城」

ルパン三世 カリオストロの城
1979年公開/日本

宮﨑駿作品における、得体の知れない、“優しさ”の正体。それが一体、何であるのか、わたしはずっと悩んでいました。みなさん、ご存知の通り、この映画は、元々はモンキー・パンチ原作のマンガで、国民的人気のアニメでもあるのですが、わたしたちが知っている、TVアニメやほかの映画作品におけるルパン三世のイメージと、のちに巨匠となる若き日の宮崎駿が描き出した、この「カリオストロの城」におけるルパン三世のイメージとは、だいぶ違います。
もちろん出てくる主要キャラや、その世界観などは基本的に同じなのですが、なんと言うのか、カリオストロのほうでは、全体的に得体の知れない“優しさ”のようなものに包まれている気がして、わたしには、この“優しさ”の正体がどうしてもわからないんですよね。
この「カリオストロの城」という作品は、おそらく生粋のルパンファンの人には違和感を覚える作品であることは間違いないと思います。それは、あまりにこの作品が、モンキー・パンチの描き出した世界観とは、かけ離れてしまっているに違いないからです。その意味では、このカリオストロの城という作品は、失敗作であるかもしれないし、公開当時、興行収入的にもジリ貧だった理由もわかます。
けれども、この作品は、宮崎駿が監督としての実績を積み重ねていくうちに、いつの間にか付加価値をもって甦りました。しかも今度は、ルパンシリーズを代表とする名作として。宮崎駿がずっと前から、その才能と個性をフルに発揮していたという“証拠”として。
創作を志したことがある人間にとっては、自らの個性や才能とは、一番わかっていそうで、一番わかっていない、とても難解な哲学です。ほとんどの人間は、最初はそれをわかったフリをして、自由に表現することこそが、個性だと大見得を張ってしまうに違いなでしょう。でも、そんな見せ掛けだけの個性は、すぐにメッキが剥がされ、ちょっと制約を加えられただけで、その創作者もどきは、自分が何者なのかも、わからなくなってしまいます。そしてよっぽどの天才か、絶え間ない努力をして、自分を突き詰め続けた者しか、次のステージには、進めません。
若き日の宮崎駿は、このときほかのどの創作者が辿るのと同じように、モンキー・パンチという大きな制約を加えられました。ルパンのテレビシリーズは経験していたものの、その与えられた制約の中で(しかも構想、制作時間が半年と、時間的にもかなり厳しかった)、彼は死ぬほど悩んだはずだと思います。自分の色とはなんなのか?ガチガチに決められた世界観の中で、自分はいかに自分を表現すればいいのか? わたしは、その中で、宮崎駿が自然と行き着いた表現こそが、自らの素であろう、この得体の知れない“優しさ”なのではないかと思うのです。
そしてこの“優しさ”という生来の武器でもって、モンキー・パンチの構築した世界観を打ち崩した瞬間に、宮崎駿は、与えられた仕事の中で、それを自分色に染めるという、本物の個性を手に入れました。
結局、この“優しさ”とは、宮崎駿という人間の生きるためのスタンスであり、人とコミュニケーションを取るときに絶対不可欠なツールなのではないのでしょうか。それは、おそらくその豊かな天分と、必死に行った自己探求への努力によって、得られた賜物であり、またそれは誰も真似できず、そして誰もその本質を感じることは出来ても、決して理解することは出来ない、彼だけの至極のものです。
わたしの知っている限り、この種の“優しさ”を画面上に滲み出すようにして、表現できる創り手はそうはいません。この表現が出来るからこそ、宮崎駿が宮崎駿たるゆえんなのだと思います。
やがてその“優しさ”という個性は、「となりのトトロ」や「魔女の宅急便」などといった作品で、大きな花を咲かせることになります。そういった意味でも、この「カリオストロの城」という作品は、宮崎駿の原点が観ることの出来る貴重な作品なのでしょうね。